植民地時代から独立まで
香辛料の交易ルートとして栄えた古代マラッカ王国。その豊かさは、やがてヨーロッパ列強の進出を招くことになります。1511年のポルトガルによるマラッカ征服から、1957年のマラヤ独立までの約450年間、マレー半島はさまざまな外国勢力の支配を受けました。西洋諸国による経済搾取と支配の一方で、文化や社会に与えた影響も大きく、現在のマレーシア社会の基盤が形作られました。本記事では、ポルトガル、オランダ、イギリス、日本の統治時代を振り返りながら、独立への道のりを探ります。
こんにちは、Jakeです。
前回の「マレーシアの歴史を探る #1」ではオーストロネシア民族の足跡からマラッカ王国とイスラムの影響までを探求してみました。
「マレーシアの歴史を探る #1」をまだ読んでない方はこちらから。

マレー半島は長い間、ポルトガル、オランダ、イギリス、日本の支配を受けてきました。でも、その歴史が今のマレーシアを形作ったんです。特に日本占領時代、独立への意識が強まったのは大きな転機。さあ、どうやって独立を勝ち取ったのか、一緒に探求しましょう。
ポルトガル支配(1511年〜1641年)
16世紀初頭、ヨーロッパでは香辛料の需要が高まっていました。当時、東南アジアの香辛料は、アラブの商人を経由して取引されており、ヨーロッパの国々は直接取引を望んでいました。その中でもポルトガルは、インド洋での航海技術を発展させ、アジアへの海路開拓に成功していました。
1511年、アフォンソ・デ・アルブケルケ率いるポルトガル軍がマラッカを攻略し、マラッカ王国は崩壊しました。ポルトガルは、この地を東南アジアにおける貿易と布教の拠点として位置づけ、象徴的な要塞「ア・ファモサ」を築きました。現在でも、この要塞の一部は世界遺産として保存されています。
ポルトガルはカトリックの布教も積極的に行いました。1545年には、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルがマラッカを訪れ、日本人のやじろうと出会います。元武士だったやじろうは、故郷の鹿児島を離れ、マカオ経由でアジアを転々としていました。このやじろうとの出会いが日本へのキリスト教布教のきっかけとなり、ザビエルは1549年に日本へ渡航することになります。マラッカは当時、東南アジアと日本を結ぶ重要な中継地であり、ポルトガルの布教活動の拠点でもありました。
ポルトガル統治下のマラッカでは、厳格な貿易管理が行われました。すべての商船は、ポルトガルの許可を得て入港し、高額な関税を支払う必要がありました。この政策は、自由な交易に慣れていた地元のマレー人やアラブ、インド、中国の商人たちの反発を招きました。
ポルトガルの影響は今日の文化にも残っています。マレーシア料理でよく使われる「ソース・カンクン」や「カレーパフ」などには、ポルトガルの調理法が取り入れられています。また、マレー語にもポルトガル語由来の単語が数多く残されており、「メジャ(テーブル)」「ジャネラ(窓)」などは、今でも日常的に使用されています。
オランダ統治とイギリスの進出(1641年〜1824年)
17世紀に入ると、オランダ東インド会社(VOC)の勢力が東南アジアで急速に拡大していきました。1641年、VOCはジョホール王国と同盟を結び、約5ヶ月に及ぶ包囲戦の末、ついにマラッカを征服しました。
オランダは貿易の中心をジャワ島のバタヴィア(現在のジャカルタ)に移し、マラッカは補助的な港として位置づけられました。スパイス諸島との直接貿易を禁止し、アジア域内貿易の管理を強化しましたが、現地の商人との協力関係も構築し、農業開発も推進しました。
18世紀末になると、新たな勢力としてイギリスが台頭してきました。1786年にはフランシス・ライトがペナン島を確保し、イギリス東インド会社の貿易拠点として開発。1819年には、スタンフォード・ラッフルズがシンガポールを建設し、戦略的な新たな貿易港として発展させました。
この時期、マレー半島では大きな人口移動が起こり、中国人やインド人の商人や労働者が増加し、多民族社会の基盤が形成されていきました。1824年のアングロ・オランダ条約により、マレー半島は正式にイギリスの影響下に入ることが決定されました。
イギリス植民地時代(1824年〜1941年)
イギリスはペナン、マラッカ、シンガポールを「海峡植民地」として直接統治し、その他のマレー諸国には間接統治を行いました。この時期、錫鉱山の開発やゴム農園の拡大により、マレー半島の経済は大きく発展しました。
労働力の需要に応えるため、中国南部やインドから大量の移民を受け入れました。こうした政策により、マレー半島の人口構成は大きく変化し、現代マレーシアの多民族社会の基礎が築かれました。
イギリスは教育面でも影響を残し、英語教育を導入。ペナンのフランシス・ライト学校やマラッカのアングロ・チャイニーズ・スクールなど、現在も続く名門校が設立されました。
しかし、経済発展の恩恵を受けたのは主にイギリス資本家と華人実業家で、マレー人農民の多くは貧困状態にありました。この時期に生まれた経済格差は、独立後のマレーシアにも大きな課題として残ることになります。
日本占領時代(1941年〜1945年)
1941年12月、日本軍がマレー半島に侵攻。わずか70日でシンガポールまで占領し、イギリスの支配体制を崩壊させました。日本は「大東亜共栄圏」を掲げ、アジアの解放を謳いましたが、実際には厳しい統制と物資不足が続きました。
特に華人社会は「華僑虐殺事件」など過酷な弾圧を受け、多くの犠牲者を出しました。一方、マレー人に対しては比較的穏やかな政策がとられ、マレー語の使用奨励や教育機会の提供などが行われました。
日本占領期は3年8ヶ月と短い期間でしたが、イギリスの植民地支配が崩壊したことで、現地の人々の間に独立への意識が芽生えるきっかけとなりました。日本の支配が終わった後、マレー人の間で独立の気運が高まり、イギリスの再植民地化に抵抗する動きが出てきました。特に、マラヤ共産党(MCP)を中心とした武装闘争が始まり、戦後のマレー半島では独立を巡る新たな局面を迎えることになります。
独立運動とマラヤ連邦の成立(1945年〜1957年)
第二次世界大戦後、イギリスが統治を再開しましたが、独立を求める声は強まる一方でした。1948年にマラヤ連邦が成立し、段階的な自治が進められました。
この時期、マレー人、華人、インド人の政治指導者たちは、独立後の国家建設に向けて協力体制を築きました。UMNO(統一マレー国民組織)、MCA(マラヤ華人協会)、MIC(マラヤ・インド人会議)による連合政党が結成され、平和的な政権移譲への道が開かれました。
そして1957年8月31日、マラヤは正式にイギリスから独立を果たします。初代首相のトゥンク・アブドゥル・ラーマンの下、多民族国家としての新たな一歩を踏み出しました。
まとめ
約450年にわたる植民地支配の歴史は、マレーシアの文化や社会に大きな影響を与えました。各時代の統治者たちは、それぞれの方針で統治を行い、その痕跡は現代のマレーシアにも色濃く残っています。特に、多民族・多文化社会という特徴は、この植民地時代に形成されたものです。
マレーシアの歴史を知ることは、現代のマレーシア社会をより深く理解することにつながります。様々な民族が共生する今日のマレーシアは、こうした複雑な歴史の上に成り立っているのです。

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